司馬遼太郎も言うていた。
日本人は正義のなんたるかを知っている。それの通らぬことも知っている。人情の機微はよくわかる。それの通らぬこともよく分かる。だからどちらも無理強いすることがない。ほどほどがよい。
民意とは、民意を語る人のためにある。民は意を腹の内に抱えるのみである。そんな物騒なものは表に出さない。イデオロギーの剣も正義の刃も振りかざして突っ走ると、走りながら関わる人を傷つける。やがて折れて砕けて、おのが眉間に突き刺さる。だから、のらりくらりとやるのが正しい。一方、サブリミナルな誘導と謀略が錯綜と連繋の果て、想定外の結果に至る。結果の多くは偶然ではない。だが決して必然でもない。見えていることなど、たかが知れている。隠れた何かを見つけたって。そこは見えてる部分なの。
さて、たとえば政治はバランスである。左も右もなく、右と左のバランスとそれの制御が重宝される。なにか偏ったものが覇者になると、なった瞬間から腐敗と崩壊と分解がはじまる。100年と続いたためしがない。だから結局、消化不良なダレた幸福というものがあってよいのだ。
これらは、予言ではない。分析でもない。ただの経験則だ。ただの史実のゆえに、すなわち公理だ。洋の東西、古今のすべてがその通りに足跡を残したのであって、されば未来に忽然と異様な理想郷が顕れるなどはあり得ない。人心はギリシャの以前から進化しない。環境が特にこの数十年で、驚くべき時空の変容を来している。しかし知って、なお動かぬ。世界に知恵を伝播すべし。日本人の愚昧の知恵を高らかに謳え。