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Author:欠谷幸丸
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ニート?なんだぁそれ。

ニート?なんだぁそれ。
あれか、働かねえでブラブラしてるやつ。
死にぁいいんだ、そんなお荷物。

聞き馴染んだような、こんなセリフが、いちばんツライ。


子供が大学に通っていないと聞かされたのは
去年の秋だった。
年齢でいえばもう卒業を控えて、就職活動に奔走しているのが、ごく当たり前な人生スケジュールだ。
ところが大学に通っていないという。
通っていないどころか通っていなかったという。
まったく、だったらしい。
してみると都合三年の間、大学には行かず、それなりに朝出かけて夜に戻る生活を淡々と繰り返していたことになる。アルバイトをするでもなく、マージャンに浸るでもなく、女におぼれるでもない。

なんなんだ。

他人なら・・・いるんだよな、そういうのが。ということで閑話休題なんだが、自分の息子となると無性に腹が立つ。こどもが優秀だと、きっと自分自身が優秀かのような錯覚に陥って、いやらしい自慢をする神経の裏返しで、子供のデキが悪いと、こどもを必要以上に卑下して目をそらして卑屈になって、本人には努力が足りんと罵倒したくなる。あくまで、自分には何の落ち度もないフリをしていたい。そして最後は、どうしようもなくなると。
置き去りにするのだ。

大学からは放校を宣告された。こうなれば働くしかないな。周囲はそう思った。
それ以外の選択肢があるなんて親は思いもしなかった。

ハローワークに行け。

ハローワークにさえ行けば就労はスタートすると思っていた。
それ以外の選択肢があるなんて思わなかった。
あるかなしかなんて仮定すら想定していない。そんなことに立ち止まって思い悩むことなど、カケラも念頭にはなかった。
一般に社会人は自分の人生を潰さないレールに乗るべきだ。 社会もそれを望むから、そのバリエーションは様々に用意されている。まれにその軌道を脱線しつつも潰れない手を打っている、したたかな者もある。しかし、実際に逸脱した者は潰されるのだ。これはよほどの事情がない限り、選択さえ許されない。自分が生まれたいと思って生まれるわけではないように、選択の余地はない。しかし、この子の父は思うのだ。こうなれば逸脱してくれてもいい。そのほうがいい。けれど本心を言えば、ほかならぬ自分の子供の話だ。普通でいてくれることが望みだ。そもそも、そんなことにいちいち逃げるなと叫びたいのだ。
逃げていては幸せになんてなれない。「幸せ」か、じつに手垢にまみれた陳腐なことばだ。幸福論なんて、道徳を語るくらいに無価値だ。しかし親の立場となればそれでよいのだと願う。それは「6%の幸せ」なんかじゃない。祈るのは「24通りの幸せ」だ。キリちゃんの言う「ただの幸せ」だ。しかしその幸せすら、この社会の中でしか実現されない。これは期待でも疑問でも教訓でもない。古今東西に自明のきわめて簡単な鉄則だ。

しかし、こどもは付いて来いといって一緒に歩き始めてくれたつもりでいても、結局は動かずにじっとしていた。いっそどこかに遠く走り出してくれていればいい。血まみれで横たわっていてもいい。私を後から刺してもいい。
しかし気が付けばいつも彼は傍にはいなくて、振り返れば、二三歩進んで立ち止まったまま、遥か後方にひとり佇んでいる。そんな印象なのだ。
具体的には逃げている。逃げ込んでいる。あれからも逃げて、これからも逃げて、自分の部屋に逃げ込んで布団にくるまっている。

自分を保ち 自分を幸せにする方法は、ただひとつ逃げないってことだけだ。じゃあ何から,となれば、それはなにもかもからだ。逃げなければ ひたむきになれる。ひたむきであることが、この世界でただひとつ自分を立たせ、人を自分に引き付け、自分に巻き込む方法だ。もちろん見向きもされず孤立する可能性だってある。それでもかまわない。ひたむきになるためにはまず自分を決めている。決めたことを覚悟する。覚悟したら死ぬまでかわらない。変えないと決める。がんばったら報われるなんて幻想にしがみつく必要もない。反応も、見返りも、報酬も求めない。覚悟したことを自分の大事なことにする。そしてそれを守って死ぬまでやめない。報われなくてもやめない。それが人生だ。めしも食わず、満ち足りて死ぬという選択肢だってあっていい。人生とは大小の覚悟の積み重ねだ。世の中にはじめから大事なものも、いつのまにか大事なこともない。それを大事にすると決めて大事にするから、それは大事なものになる。生きている理由なんてない。
決めたことを理由にするのだ。

逃げることにエネルギーがいるのかどうか 私にはわからない。しかし 逃げること以外に自分の生命力の使い途がないのなら、だれかがそのことを否定しても、否定のしようがないんじゃないかとも思うようになった。きっと、この子を部屋から引き摺り出して、強制労働をさせる手立てがあるなら、そうすべきなんだろう。そうすべきなんだろうが、そうすべきなんだろうか。
この一連の話をすると多くのひとは、彼がもう成人していることを前提にする。成人なら自分で解決しなければならないという。その通りだ。しかもほんとうなら、成人していようがいるまいが、『女王の』阿久津先生の言うように自分の人生くらい自分で責任を持たなきゃだめだ。子供はたとえ未成年でも、自分の人生を自分で決める力があると『14才の』おかあさんも言った。その通りなのだ。その通りだから。
涙が止まらない。

もし、強権的に働かせて、彼が従順にそれに従うなら、働けといった親のことばはそれほどまでに無力なのかと悲しい。それほどまでに伝える力がないのか、それほどまでに内容がないのか。子供はその皮膚の内側に、すべてを吸い込んで無力化してしまうほどの深い闇を抱えているようにも思えた。子は親の鏡だという。そうであるなら・・・なんだ、その通りじゃないかとも気づかされた。・・・親から逃げ、学校から逃げ、自分から逃げ、家族から逃げ、子供から逃げ、会社から逃げ・・・そうして生きてきたのはほかならぬこの父たる私だ。さていま、遠くからこちらを見ているこどもに、ふたたび背中を向けて逃げかけて少し、逃げることにためらっている自分がいる。
『14才の』おかあさんは、親は子供を信じるしかないと言った。そして子供を守りますと言い切った。人に迷惑がかかるならいっしょに頭をさげて回るとも言った。そんな腹を括った覚悟が自分にはないのだ。
そのとおりだ。自分を反映してこの子がある。

おとなは今のこどもがわからないという。しかしこども自身が自分を分かっている訳じゃない。私が大人の歳になってみて、おとなの歳の自分を冷静に見詰めてみても、実はこれまた幼いころからの疑問をほとんど解決することもなく、今も何も分からないままでいることに気付く。分かったふりすら出来ないでいる愚かなおとなもこうして実在するのだ。

さてでは、成人になった子の親にその成人に対する責任はないのかと問えば、親は子供が自分の子供であることを放棄しない限り、子供に対する責任はあるのだと思える。なによりそういう大人にしてしまった責任がある。それが理由で世間に迷惑をかけたのなら、頭をさげて回ろう。回ろうというのが決心だ。覚悟だ。

「覚悟してる。死ぬまで別れない。」『14才の』娘はそう言った。そんな覚悟が理想だ。


この23歳になる息子が、産まれた頃のことを思い出していた。家内はなんだったか、その時産院で動けないまま入院していた。息子は羊水混濁で産まれて、たちまち県立病院に直送された。危ないと言われた。覚悟しておけとも言われた。何がなんだか分からない中で、とにかくついておらねばならないと思った。わたしは大学を出るにしても、まだ一年必要な、自堕落な学生だった。

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