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『14才の母』礼讃

『14才の母』礼讃

親は子供の社会的でない行動に如何に関わり、世間と対峙するのか。応接するのか。
このドラマは幼い母のゆらめく心のストーリーではなく、その親のたちの覚悟のストーリーだ。

14歳の一ノ瀬未希と15歳の桐野智志に子供ができて、女の子は産みたいと思って決心をして、男の子は何をすることも当然に出来なくて、その現実に距離を置かざるを得なくなる。周囲の批判にさらされ孤立する女の子は、しかしやがて、ひとりひとりとシンパシーを回復してゆく。最後には離れた男の子も中学を卒業して将来の結婚を約束する。当然に主役はこの女子+ひとり+男子なのだが、ストーリーのプロデュースとシナリオはお母さんを中心とした大人たちが担っているわけだ。おとなが、かれらとかれらの要求を受け入れなければ、この話はどれも実現されないからだ。


自分の子供のひたむきな姿をまのあたりにした時、親たるものはひたむきな子供を否定できるのだろうかと思うのだ。
こんな、あまっちょろいやつらをと鼻で笑いながら、しかも最後の最後まで、子供も親もあまっちょろくて。
でも、思えば、あまっちょろいことが、なんでだめなんだと。
あまっちょろくていいじゃないかと。
そう思う自分がいるのだ。
それよりは、ひたむきであることのほうが、もっと心地いい。
そう思うのだ。
「おとうさんとおかあさん」にとって、孫が一人出来て、娘と孫をまんま養育することなど、それほど今の彼らの経済を脅かす負担にはならないないだろう。覚悟と言えるほどものではないかもしれない。しかし、やはり社会性を帯びたふつうの家族にとってみれば、これは驚天動地だ。驚天動地でなければならない。

未希はストーリーを負うごとに、孤立してひとりだと思い込んでいた自分が、実はひとりでなかったことに気づき始める。しかしそれは彼女がひとり、またひとりと自分の味方を増強させていった結果でもある。
彼女は思う。わたしは、子供として、父母に大切にされている。きりちゃんは少なくともわたしのことを好きだと言ってくれて、たとえ現実にはこの思いがわたしの一方通行であったとしても、そのかかわりの記録媒体として「そら」がいる。しかも、そらは、わたしの自身と私の行動の存在証明だ。さらに、わたしや、わたしが大切に思うひと、わたしを思ってくれる人と同じ、一個の存在だ。
わたしはそらと死ぬまで別れない。それは、そうわたしが決めたからだ。わたしが覚悟したからだ。わたしは覚悟したらもう変わらない。覚悟には理由があるからだ。そしてわたしが変わらずにいれば周りが変わる。周りが変わらなくてもかまわない、それでもわたしは変わらない。わたしは決めたからだ、覚悟したからだ。
ひとは、それぞれに人格、パーソナリティーをもっていて、環境からも関係するひとからも、生きていくためのいろんなヒントをもらい、大小の覚悟を重ねて・・・収斂してひとつの方向へ歩いてゆく。その方向とはどの方向なんだろう。
もし、ひとがほんとうに逃げなければ、ひたむきになれれば、この足はどこへ向かうのだろう。
それへの一過程をしあわせと呼ぼうか。

自己保存の行き着く先は散逸傾向だ。それはわたしの体の現象としては死だ。自分が消えて、消えて環境に溶けこんでゆく。行き着く先は安定と調和の世界だろうか。


いま、この世界には情報が多い、しかも錯綜している。選択肢が多い。多くの場面で、多くのことを決めねばならない。決めなければならないと思うし、決めろと迫られる。どの選択が正しいという判定は今の時代、誰にもできなくなった。それほどに多岐である。
キリちゃんは産めば後悔するといった。
未希は産まなくても後悔するといった。
あまたある選択肢のなかで、選べるのはひとつのルートだけだ。だから、うまくいかなくても、うまくいっても後悔する。
何を選択しても変わらない。必ず後悔する。どの選択肢においても必ず後悔が用意される。さて、後悔しない唯一の方法は。それがあるのだ。決めるにあたって覚悟することだ。どうだっていいからこそ覚悟するのだ。「あったら死ぬまで別れない。」未希はそう言ったが、覚悟したら死ぬまで変わらない。人生はそんな大小の覚悟の積み重ねだ。結果は同じでも、後悔することはない。それを幸せと呼べるのではないか。きりちゃんはママに言う。人が認めてくれなくても、自分自身が納得できるような生き方のなかで、誰よりもでなくていいから、ただ幸せになりたい。
何かを得ようと思わないことだ。反応を期待しないことだ。反応によってうろたえないことだ。阿久津先生は言った。
あなたたちにできることはせいぜい目をつぶることぐらいじゃない。でも目を閉じても、状況は何も変わらないわよ。こんど目を開けたら状況はもっと悪くなっているだけ。
覚悟があっても、目を閉じるかもしれない。
怖くなって、目を閉じるかもしれない。
しかし、つぎに目を開けたとき。
まよわず自分を動かすものが、もしあるとするならば、それは前もってあった覚悟だけじゃないかと思うのだ。

実は、14で子供ができるというのは悪い事態じゃない。ドラマの中のすべての否定的条件がクリアできれば、相部屋の妊婦、池山さんのセリフは一方で的を得ている。カップルの相互関係(←これは難しいが)。経済的な条件、あるいは早い年齢の妊婦や産児の疾病傾向・・・脳と体の発育の傾向・・・それらがクリアされるのなら、決して悪いことじゃない。
きりちゃんが言う「順番が逆なだけ・・・」というのもあたりだ。そういう意味で「若っ。いいなあ。まだ14だったら、なんだってできるじゃない。」というセリフは年老いた大人たちの心境を代弁している。したくっても、多くのひとができない現実もある。「限界あるわよ、」なのだ。

一話の冒頭、未希はなぜだか橋の柵の外に出てしまって、落ちそうで、つまり死にそうな仔犬の命を助けようとする。
「なに見てるの。」
「助かればいいなあと思って。」
「やばっ、落ちたら死んじゃうかも。」
「どうしてあんなところにいるんだろう。」
「理由なんて、どうでもいいじゃん。」
「おい危ないって、やめとけよ。」
「大丈夫。体育だけは自信あるから。」
未希は仔犬を助けようとして。足を滑らせて橋から落ちそうになる。
そんな未希をきりちゃんは助けようとする。
「つかまって。」
「無理。離したら落ちる。」
「だから危ないって言ったじゃん。」
「文句言うなら助けなくていい。」
「そうはいかねえだろ。」
「もし私が死んだら、お葬式に来てね。子犬を助けようとして死んだやさしい少女って言ってね。」
きりちゃんは未希の手を取ったが、
二人は共に川に落ちて、
「ばかみたい、浅いよ、これ。ばかみたい。」
「びっくりした。」
橋の上から川の中に落ちたふたりは、無傷で助かって。仔犬はもちろん助かって。・・・ドラマ全編のメタファーである。

きりちゃんは子犬に関心があるが傍観者でしかない。未希はそこあるものの存在を認めて行動する。行動して覚悟した。もうゆるがない。
未希は仔犬の命を助けようとして足を滑らせる。きりちゃんは、助けないわけにいかないから助けようとする。しかし共に落ちる。助かってみれば、案外浅い。

きりちゃんと結ばれた後、きりちゃんは未希から遠のいた感がある。彼女に対するうしろめたさが拭えずにいることと、自分が彼女に立ち止まることに対する苛立ちがあるのだろう。

未希はみんなに望まれて産まれた、と父は言う。ひるがえって、こどもがわたしにできているとすれば、この子はまずい。
この子は誰にも望まれない。不安が現実となって、未希は妊娠を自覚する。
今でさえ、きりちゃんとの距離を感じるのに。会ってくれないのに。子供が出来たと知られれば、ますます遠ざかるのだろうか。

命を助けたジミは大きくなった。
「こわかった。自分の体が自分の体じゃないみたいで。
誰にもいえなくて。はじめて、私はたった一人なんだって思った。
おかあさん、たすけて。たすけて、おかあさん。」
きりちゃんと過ごした夜、「ねえこれ、いけないことなのかなあ?」と自覚とも疑問ともつかない言葉を口にした未希だが、
それは果たして「いけないこと」なのかという認識への抵抗がこころの奥にはいつもある。行為そのものではなく、わたしのきりちゃんへの思いはいけないことではないと言う自負もある。そういうきりちゃんへの思いは子供への傾斜を形作るだろうか。禁忌とは常に説明不足なものだ。

おなかの子への確信は、結果的には的場先生の登場で決定付けられる。
周囲からのきりちゃん否定への反発も、こども(≒きりちゃん)への傾斜に向かう。
きりちゃんを好きだという宣言はもうそれが自己保存だ。
手術の日の朝、的場先生はすいぶん苦しんだねと言ってくれた。そうなのだ。
産むにしても産まないにしても、どちらもがつらい選択だと言ってくれたのは的場先生だけなのだ。
なぜわたしが、いけないことをしたかの、いけないことの理由は、16歳以下の女性に対する肉体的リスクだった。的場先生は、学校の勉強や世間への目なんてどうにでもなることだと言ってくれた。でもあなたが死んじゃったら取り返しがつかないことだと言ってくれた。それがいけないことなのだ。
だから、この子は「いけないもの」じゃなかった。これは本来大メルクマールだろう。世界に一人きりだと思ったとき、そうではなくてお腹の中の子供がいることに気づくなら、そのとき女性は、紛れもなく母となり、こどもを守ろうと突き動かされる。

おなかのこどもは観点を変えれば、それは関係の証明、私を含めこんだ存在の
立ち位置、存在理由=レイゼンテイトルなのだ。
子供のころ。レイゼンテイトルと言う言葉を聞いた時、それはあるものか無いものかの問いかけのように感じていた。
あるいはそうしたものにすがるという意味で、この言葉、存在理由=レイゼンテイトルがあるのだと思っていた。
しかし。違ったのだ。これは、あれかこれかのチョイスではない。あらかじめ用意されている回答でもない。レイゼンテイトルとは、覚悟なのだ。

最終的にはきりちゃんも未希もおとうさんもおかあさんもきりちゃんママも逃げないで向き合う。向き合わなければ覚悟は生まれない。
きりちゃんは逃げちゃいけないんじゃないかと思ったわけだが、
男子の決断は、きっと女子以上に時間がかかる。
このたった15歳の少年が、実際には半年で覚悟して逃避に決別し、自分以外もののために生きる決心をする。他のすべての選択肢を、自ら閉じたのだ。
週刊誌に端を発してきりちゃんママの会社は倒産に至る。しかし、母は実はそれに一言も触れない。これも強く潔い。全編のなかで、14才の親子から、取り返しの付かない甚大なる被害を被ったのは、(表現上)きりちゃんのママ、ただひとりだ。
自殺の後、退院するシークワンスでは
「罪滅ぼしのつもり?」と言う。それは、そういう事実関係の顕れだ。

一ノ瀬一家の選択は、一般的なものではない。この選択がもし(いわゆる)幸福にいたるなら、それはよほど経済的には平均以上の恵みがなければならないし、家系的にも適当な水準を保っていなければありえない。そのことを当事者の内側から指摘しドラマが単に偽善的にうわっ滑りしないように摩擦抵抗をかけるキーパーソンがきりちゃんママだ。

存在とは関係であって、関係は意志に基く。意志はやがて覚悟につながる。

人間は社会の中で生きている。世間・・・でもいい。
人間はさらに言えば、社会を逃避しては生きられない。
産まれることはそのまま、社会への帰属を意味する。
生まれている者も、産まれる者もここからは逃れられない。


さみしくたって、大事なものがあれば、がんばれちゃいますよね。
大事なこと、だいじなもの・・・生きる理由はそれだけだ。理由は自分で決めるのだ。
お腹の子供は、自分と惚れた彼との関係の記憶である。
母は「子(=わたし)に会うために生まれて来た」と思ってくれていた。
たれもが、だれかの子である事実。
わたしはわたしの子に会うために存在したのだという感情。
わたしはだから、この子に会いたい。と結論し、
母は、私のおなかの子を否定できなくなる。
おかあさんは『覚悟』する。
おとうさんは、問題解決のためにちいさな覚悟を重ねてゆく。
ぶれているようでぶれていない。甘かろうが辛かろうが、いいんだかわるいんだか徹底して未希を見守りつづけている。そしてやがてそのために、きりちゃんさえも見守る。
きりちゃん母は、信じられないくらいノーマルで、ひたむきだ。そして社会の正当性を代弁している。すなわち、彼女の語る言葉は常に正しい。論理的で一時の感情に左右されない。そんな機能だ。
それにしても未希のまわりのメンバーのいかにすさまじいことか。生きる力をどんどん強力にしてゆく。だれもがすさまじくて、やつらがじわりじわり未希の味方になってしまう。
なんでだろう。理由を突き詰めれば、ひたむきだからだ。自らを決める(覚悟する)逃げない、ひたむきである。それが生きる、唯一の方法だ。
ひたむきであることが、ひとを味方にする。
ひたむきでなければ、ひとは振り向いたりしない。味方になんてならない。
(『女王』も『正義』もひたむきだ )

命には様々な側面、見え方があって、過去、
人命を軽軽しく扱うかに見える時代を人類は経験してきた。人柱あり幼少年の生贄ありで、それらを制度としてすら備えたし、あるいは戦のたびに勇ましき子供たちを死なせてきた。洋の東西のあらゆる文化が辿った道だ。

命だけではなくて、存在とよばれるものは関係によって成立している。
わたくしならわたくしが、わたくしだけで自尊独立孤立しているなどは、有り得ない。
14歳でこどもができて、こどもを産むという事態は、プロデューサーがいうように、
社会的に出産を容認されない設定だ。
出産と生命の誕生は異なる。出産と生命は異なる。社会の中での生命とは、今の社会の中での生命をさすのであって。これは過去において異なり、これからも変化する特殊性を帯びている。
生命と「生きる」ということは違う。「生かす」ということとも違う。
すべては関係の中で表現されるからだ。
形而上的に思念化された、こうあるべき理想の生命観と現実のギャップ。これはだれもが、知らずもがなに知ってしまう。だれもがうすうすではなく、はっきり感じている。命のいかにもろく儚くて、いかに無価値な見え方をするか。だからこそ、その寂寞の荒野に立ったとき、いかに命が大切に思えるか。そういうことだ。いのちは勝手に大切なものなのではない。大切にするものなのだ。

さて、三流雑誌記者。
情報を積み重ねると、ひとは少し賢くなったような気になる。えらくなったような気になる。「ネットでは情報を持つものがカリスマだ。」しかし、自分自身のフィルターを持たないものが情報を食らい続けても、ただブクブク太るだけじゃないか。体内に有効な消化機能と免疫機能を持たなければ、人ごみに出ちゃあいかんのだ。
記者はプライバシーを暴く。しかし記者は戦わない。現象の表情を無責任に垂れ流すだけだ。それは好悪ではなく、それが職責なのだ。表層しか捉えない。これはもうしようがない。
何も知らないくせに・・・とお母さんは記者にはき捨て言うが、他人は苦しむ人の、何かを知りたいわけじゃない。自らが関わる必要はないし、関わってはいけないし、関わりたくないと思っている。真実なんてどうでもいい。むしろ知りたくないのだ。


記者は「こども」を、十把ひと絡げに並立して捉える。銃を持って戦う子供と飢えて死んでゆく子供と
子供をつくって(しまって)思い悩む(だけの能力はみあげたものだが)子供を同等に語ろうとする。子供とは、社会環境の産物だ。社会環境の産物なのだ。戦場写真のハザマにみき+さとしのプリクラを貼るシークワンスにもそのあたりのカテゴリーエラーがある。


さて、そらが産まれて。
未希は産まれた子にありがとうと語る。まさに未希は、そらにおいて存立したのだ。

訪れたきりちゃんは未希の背中に「一ノ瀬」と呼びかけた。前段までの風からしてぼくは、二人が出会ってこのかた、きりちゃんははじめて自分から彼女を呼んだんじゃないかと思った。あまりにも堂々とした、決意と覚悟の威風を感じた。ひとはこうなれるんだ。二年経って18になって・・・といっていたから、もう誕生日を過ぎて16歳か。尊敬に値する。

きりちゃんは中学を卒業して子のために働くことを覚悟し、一ノ瀬に言う。

一ノ瀬といるときは、おれだった。
一ノ瀬といるときだけは、いつも空がきれいだと思った。
思念として自分と一ノ瀬と空とそらを重ねることが可能になる設定だな。

その子は、ほんとうのおれの子だ。その象徴がそらだ。
ふたりのキモチが空に重なって
そらとなってつながった。

二年たてば、ふたりは結婚したいとお互いの親を交えて語る。
きりちゃんママは言う。
二年もたてば変わるわよ。
未希は答える。
変わりません!
変わらないことは期待や希望ではなく、彼女には変わらない理由と確信がある。
会ったら、死ぬまで別れない覚悟がある。
きりちゃんママは言う。
懲りない子ね。
おかあさんは答える。
私の娘ですから。

出産での失血のために瀕死の床にあった未希をして、おかあさんはこう言った。
未希は大丈夫、だってもう、母親なんだもん。
あまりに唐突に聞こえたが、唐突なだけにこのセリフはずっと気に懸かった。気に懸かりながら、
私の娘ですから、に至って、生かされた気がした。
ここに至ったのは、まさにお母さん。
彼女の覚悟と意思の帰結だ。
未希ではない。母親の覚悟と意志だ。
そして、ここからは未希の母親としての覚悟と意志の歴史が始まる。
すでにそれは始まっているのだろう。

キツイんだろうけど。


あとひとつ、
ひとが、心の内奥で思いつくことも、こうあらねばも、おためごかしも、おもんばかりも、これほどまでにそれぞれにすれ違うものなんだと改めて気づかされる。ドラマによくある手法としてのすれ違いを指すのではない。描かれる人たちは、ひたむきで独善的で、好き勝手だ。ちから技の応酬だ。きりちゃんと未希。未希とおかあさん、おとうさん。家と家と社会。そのなかで、中絶の意味。認知の捉え方。産まれる子供への感情。まっすぐなんだが、みんなバラバラなんだ。バラバラで交わることなく、慌てふためき、それでも同じ時空で、同じ土俵でひたむきに右往左往している光景が、「ああ、それでいいんだ。」と思わせてくれる。本来なら論理的にか感情的にか収斂させるところを、バラバラにそれぞれがそれぞれの覚悟の裡で収束させて、次に進めてしまう。しかし現実の推移とはそうしたものだ。そういう意味ではここにリアリティーが潜んでいる。このストーリーをいろんな立場のひとがいろんな観点から眺めて、でもつまりはこうなんだろうな・・・ときっと思わせてくれるなら。そういう意味で肩の力を抜かせてくれるなら。その放置の仕方が良い具合なのかもしれない。
これは観る回数を重ねるごとに感じた。現実に引き写せば、キツイだろうな、という心配とともに。

「勝手にすれば。でも、わたしは認めないわ。
悔しかったら本気でやって。
わたしにおめでとうって言わせるのね。」
きりちゃんママのお言葉だ。
社会たるものに口があればきっと、こう言うのに違いない。大いなる愛情を添えて。










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